- 4月 17, 2025

NHK 名曲アルバム 100選 ロシア・北欧編 ペールギュント - キャラミュージック
NHK 名曲アルバム 100選 ロシア・北欧編 ペールギュント
数あるクラシック音楽の名曲の中でも、ノルウェーの作曲家エドヴァルド・グリーグ(1843-1907)が劇付随音楽として作曲し、後に編まれた2つの管弦楽組曲『ペール・ギュント』は、世界中の人々に親しまれ、愛され続けている傑作です。特に「朝(朝の気分)」や「山の魔王の宮殿にて」といった楽章は、テレビCMやBGMなど、様々な場面で耳にする機会が多く、クラシック音楽に馴染みのない人々にとっても、その旋律はどこか懐かしく、親しみやすいものでしょう。
NHK「名曲アルバム 100選」は、時代や地域を超えて輝きを放つクラシック音楽の精髄を、美しい映像と共に紹介する長寿番組であり、そのセレクションは多くの音楽ファンにとって信頼のおける指標となっています。その「ロシア・北欧編」において、『ペール・ギュント』が選ばれていることは、この作品が北欧音楽を代表する、揺るぎない地位を確立していることの証左と言えます。
背景:イプセンの戯曲『ペール・ギュント』
グリーグの音楽を深く理解するためには、まずその元となったノルウェーの国民的劇作家ヘンリック・イプセン(1828-1906)による韻文戯曲『ペール・ギュント』(1867年執筆、1876年初演)を知ることが不可欠です。全5幕からなるこの壮大な戯曲は、ノルウェーの民話や伝説を題材にしつつ、主人公ペール・ギュントの波乱万丈な、そして自己探求の生涯を描いています。
ペールは、ノルウェーの田舎に住む、夢見がちで大言壮語、無責任で衝動的な青年です。彼は現実から逃避するように、世界中を放浪します。富豪になったかと思えば無一文になり、預言者を気取ったり、精神病院に入れられたり、難破したりと、目まぐるしい冒険(あるいは自業自得の転落)を繰り返します。その根底にあるのは、「おのれ自身であれ(Vær deg selv)」という山の魔王の教えと、「おのれ自身に徹せよ(Vær deg selv nok)」という人間本来のあり方との間で揺れ動く、ペールの自己同一性の探求です。
放蕩の限りを尽くし、年老いて故郷ノルウェーに戻ったペールを待っていたのは、彼が若い頃に出会い、裏切りながらも、生涯彼を待ち続けた純真な女性ソルヴェイグでした。ペールは自らの人生が空虚であったことに気づき、自己の存在意義を見失いますが、最終的にはソルヴェイグの無償の愛の中に、自身の本当の姿、救いを見出す、というのが大筋です。
この戯曲は、単なる冒険譚ではなく、人間のエゴイズム、自己欺瞞、真実の愛、故郷への想い、そして人生の意味といった普遍的なテーマを、幻想的かつ風刺的に描いた、深い哲学性を湛えた作品です。
グリーグと『ペール・ギュント』音楽の誕生
1874年、イプセンはグリーグに手紙を送り、自身の戯曲『ペール・ギュント』の上演にあたって、付随音楽の作曲を依頼しました。当時のグリーグは、ピアノ協奏曲 イ短調(1868年)などで既に名声を得ていましたが、この壮大で幻想的な戯曲に音楽をつけることは、彼にとって大きな挑戦でした。グリーグ自身、この題材が「扱いにくく、音楽的でない」と感じ、作曲には大変な困難を伴ったと述懐しています。
特に、戯曲の持つ風刺性や抽象性を音楽で表現することに苦心しました。しかし、グリーグはノルウェーの民族音楽の要素を取り入れながら、登場人物の性格や情景を鮮やかに描き出す、独創的で魅力的な音楽を創り上げていきました。劇付随音楽は全26曲からなり、オーケストラだけでなく、独唱や合唱も含まれる大規模なものでした。
1876年2月24日、クリスチャニア(現在のオスロ)での『ペール・ギュント』初演は、グリーグの音楽も相まって大成功を収めました。この成功を受けて、グリーグは劇付随音楽の中から特に人気の高い楽曲を選び出し、演奏会用の組曲として編み直しました。これが、現在広く知られている2つの組曲、第1組曲 作品46(1888年編)と第2組曲 作品55(1891年編)です。これらの組曲は、戯曲の筋書きの順序とは必ずしも一致せず、音楽的な効果や構成を考慮して配列されています。
組曲 第1番 作品46
最も有名で演奏機会も多いのが、この第1組曲です。4つの楽章からなり、それぞれが極めて個性的で、聴く者の想像力をかき立てます。
第1曲「朝(朝の気分)」(Morgenstemning):
おそらく『ペール・ギュント』全曲の中で最も有名な楽章でしょう。フルートとオーボエによる、清々しく牧歌的な旋律が、夜明けの静けさと穏やかな光景を描き出します。次第に弦楽器や他の管楽器が加わり、音楽は豊かに広がっていき、まるで太陽が昇り、自然が目覚めていく様子を音で表現しているかのようです。戯曲では、第4幕の冒頭、主人公ペールが長年の放浪の末に辿り着いた北アフリカ・モロッコの海岸での日の出の場面で演奏されます。しかし、その音楽の普遍的な美しさは、特定の場面を超えて、希望に満ちた新しい一日の始まり、あるいは心の平穏といったイメージを喚起させます。グリーグ自身は、この曲がノルウェーの風景ではなく、モロッコの日の出を描いていることを皮肉っていたとも言われますが、音楽の持つ力は、特定の場所や状況を超えて人々の心に響きます。
第2曲「オーセの死」(Åses død):
「朝」とは対照的に、深く沈痛な雰囲気に満ちた楽章です。弦楽合奏のみで演奏され、低弦による重々しいリズムの上に、悲しみに満ちた旋律が奏でられます。これは、ペールが故郷を捨てて放浪する前に、病床の母オーセを看取る場面(第3幕)の音楽です。ペールは、空想のそりに乗って天国へ行く話を聞かせながら、母を安らかに眠らせます。音楽は、悲しみの中にも、母への愛情や、避けられない死の厳粛さを静かに、しかし深く表現しています。抑制されたダイナミクスと、ゆっくりとしたテンポが、悲劇的な場面の重みを伝えます。
第3曲「アニトラの踊り」(Anitras dans):
再び場面は変わり、異国情緒あふれる軽快な踊りの音楽となります。舞台はモロッコ。ペールが出会ったアラビアの族長の娘アニトラが、彼を誘惑するために踊る場面(第4幕)の音楽です。弦楽器のピッツィカート(指で弦を弾く奏法)による軽やかなリズム、トライアングルのきらめくような音色、そしてヴァイオリンが奏でる優雅で魅惑的な旋律が特徴です。マズルカ風のリズムが用いられ、エキゾチックでありながらもどこか優美な雰囲気を醸し出しています。ペールを翻弄するアニトラの、小悪魔的な魅力が音楽に見事に表現されています。
第4曲「山の魔王の宮殿にて」(I Dovregubbens hall):
第1組曲のフィナーレを飾る、強烈なインパクトを持つ楽章です。戯曲の第2幕、ペールが山の魔王(ドヴレの老人)の宮殿に迷い込み、トロール(北欧神話の妖精、ここでは醜く野蛮な存在として描かれる)たちに捕らえられ、脅される場面の音楽です。ファゴットや低弦による、不気味で短い動機が静かに繰り返され、次第に速度(アッチェレランド)と音量(クレッシェンド)を増していきます。他の楽器が次々と加わり、音楽は狂乱的な興奮状態へと突き進み、最後は打楽器も加わった全オーケストラの強烈なトゥッティ(総奏)で締めくくられます。迫り来る恐怖、グロテスクなものたちの狂宴が見事に描かれており、聴く者に鮮烈な印象を与えます。
組曲 第2番 作品55
第1組曲ほど頻繁には演奏されませんが、こちらもグリーグの独創性と叙情性が光る魅力的な楽章で構成されています。
第1曲「イングリッドの嘆き(花嫁の略奪とイングリッドの嘆き)」(Bruderovet. Ingrids klage):
劇的な冒頭部分と、それに続く悲痛な嘆きの部分からなります。冒頭は、ペールが裕福な農家の娘イングリッドの結婚式に乱入し、花嫁を強奪して山へ逃げる場面(第1幕、第2幕冒頭)を描写しており、荒々しく力強い音楽です。続くアンダンテの部分では、捨てられたイングリッドの悲しみと絶望が、オーボエや弦楽器による哀愁に満ちた旋律で歌われます。激しい情熱と深い悲しみが対比的に描かれています。
第2曲「アラビアの踊り」(Arabisk dans):
これも第4幕、モロッコの場面の音楽です。ペールがもてなされる宴で、アラビアの娘たちが踊る様子を描いています。ピッコロやトライアングル、タンバリンといった楽器が活躍し、「アニトラの踊り」とはまた違った、より異国情緒豊かで、やや活気のある雰囲気を醸し出しています。フルートやオーボエによる旋律は、中東音楽の音階を模倣したような響きを持ち、砂漠のオアシスでの宴の情景を思い起こさせます。
第3曲「ペール・ギュントの帰郷(嵐の夜の海の情景)」(Peer Gynts hjemfart. Stormfull aften på havet):
第5幕、老いたペールがノルウェーへ帰る船が嵐に見舞われ、難破する場面の音楽です。低弦のうねるような音型と、管楽器や打楽器の激しい響きが、荒れ狂う海の様子、雷鳴、吹きすさぶ風をリアルに描写します。オーケストラのダイナミクスを駆使した、非常に描写的な音楽であり、自然の猛威と、それに翻弄されるペールの絶望的な状況を dramatic に表現しています。
第4曲「ソルヴェイグの歌」(Solveigs sang):
組曲第2番、そして『ペール・ギュント』の音楽全体の中でも、特に感動的な楽章の一つです。ペールを待ち続ける女性ソルヴェイグが、山小屋で糸を紡ぎながら、いつか彼が帰ってくることを信じて歌う場面(第4幕の終わり、あるいは第5幕)の音楽です。元々はソプラノ独唱で歌われますが、組曲では主にヴァイオリン(または他の独奏楽器)がその美しい旋律を奏でます。シンプルでありながら、深い愛情、献身、そして一抹の哀しみを湛えた旋律は、聴く者の心を強く打ちます。ノルウェーの民謡を思わせる素朴さと、清らかな抒情性が見事に融合しており、この音楽はソルヴェイグの純粋な魂そのものを表しているかのようです。戯曲の結末で、ペールが救いを見出すのは、まさにこのソルヴェイグの変わらぬ愛の中でした。この楽章は、物語全体のテーマを象徴する、重要な役割を担っています。
音楽的特徴とグリーグの様式
『ペール・ギュント』の音楽は、グリーグの様式を特徴づける要素が凝縮されています。
旋律の魅力: グリーグは「北欧のショパン」とも称されるように、親しみやすく、心に残る美しい旋律を書く才能に長けていました。「朝」や「ソルヴェイグの歌」に代表される叙情的な旋律は、彼の音楽の大きな魅力です。
民族音楽の影響: ノルウェーの民謡や舞踊のリズム、旋法(音階)からの影響が随所に見られます。これは、音楽に独特の色彩と国民的な性格を与えています。ただし、直接的な引用というよりは、その精神性や雰囲気を自身の語法に取り入れていると言えます。
巧みな管弦楽法: 各楽器の特性を生かした色彩豊かなオーケストレーションも特徴です。「朝」のフルート、「山の魔王の宮殿にて」のファゴットや低弦、「アニトラの踊り」のピッツィカートやトライアングルなど、場面や情景を効果的に描き出すための楽器の使い方が巧みです。
標題音楽としての性格: 各楽章が特定の場面や心情を描写する「標題音楽」としての性格が強く、聴き手は音楽から具体的なイメージを容易に思い浮かべることができます。
劇的な表現力: 「オーセの死」の悲しみ、「山の魔王の宮殿にて」の狂気、「ペール・ギュントの帰郷」の嵐など、様々な感情や情景を dramatic に描き分ける表現力の豊かさも、この作品の魅力です。
『ペール・ギュント』の意義と遺産
グリーグの『ペール・ギュント』組曲は、単なる劇付随音楽の抜粋に留まらず、独立した管弦楽作品として世界的な人気を獲得しました。その理由は、第一に、各楽章が持つ音楽的な魅力と完成度の高さにあります。親しみやすい旋律、鮮やかな色彩、そして劇的な表現力は、時代や文化を超えて多くの人々を魅了し続けています。
第二に、この音楽がイプセンの戯曲の根底にある普遍的なテーマ、すなわち人間の探求、故郷への想い、愛の力といった要素を、音を通して効果的に伝えている点です。たとえ戯曲の筋書きを知らなくても、音楽そのものが持つ感情的な力によって、聴き手は様々なイメージや感情を呼び覚まされるのです。
第三に、この作品はグリーグの名声を国際的に確立し、ノルウェー音楽、ひいては北欧の音楽文化全体への関心を高める上で、極めて重要な役割を果たしました。グリーグは、自国の民族的な要素を芸術音楽の中に昇華させることで、独自の音楽語法を確立し、「国民楽派」の代表的な作曲家の一人と見なされています。『ペール・ギュント』は、その最も成功した例の一つと言えるでしょう。
NHK「名曲アルバム」における位置づけ
NHK「名曲アルバム 100選」の「ロシア・北欧編」に『ペール・ギュント』が選ばれたことは、この作品が持つ芸術的な価値と、北欧音楽を代表する存在であることを明確に示しています。広大なロシアの大地が生んだチャイコフスキーやムソルグスキー、リムスキー=コルサコフらの重厚で色彩的な音楽とはまた異なり、グリーグの音楽は、フィヨルドの峻厳な自然や、北欧の澄んだ空気、そして民話の世界を思わせる、独特の抒情性と透明感を持っています。
番組では、ノルウェーの美しい自然や文化を紹介する映像と共に、この音楽が演奏されることで、聴き手(視聴者)はより深く作品の世界に没入することができます。「朝」では雄大なフィヨルドの夜明けが、「山の魔王の宮殿にて」では神秘的な森や洞窟が、「ソルヴェイグの歌」では素朴な山小屋や可憐な高山植物が映し出されるかもしれません。こうした視覚的な要素との組み合わせは、音楽の持つ描写的な力をさらに高め、作品への理解と共感を深める助けとなります。
おわりに
グリーグの組曲『ペール・ギュント』は、イプセンの壮大な戯曲に触発されながらも、音楽それ自体が持つ力によって独立した生命を輝かせている、稀有な傑作です。変化に富んだ各楽章は、人生の様々な局面——希望、死、誘惑、狂気、嵐、そして愛——を鮮やかに描き出し、聴く者の心に深く刻まれます。その親しみやすさと芸術性の高さは、クラシック音楽の入門としても、また熟練した聴き手にとっても、尽きることのない魅力を持っています。
NHK「名曲アルバム 100選」に選ばれたことは、この作品が単なる人気曲ではなく、時代を超えて愛され、語り継がれるべき普遍的な価値を持つ「名曲」であることを改めて示しています。北欧ノルウェーの自然と精神性を映し出したグリーグの音楽は、これからも世界中の人々の心に、時に爽やかな朝の光のように、時に深い感動と共に、響き続けることでしょう。